みやまえ人Story

みやまえ人Story VOL.4 西澤正浩さん

ずっと住み続けたいまちに。これからも愛すべきまちに。

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西澤正浩さん VOL.4

宮前区宮前平在住・宮崎在勤(東京都出身)

1968年1月30日生まれ

STUDIO NIXX & PRINT STUDIO NIXX 経営

宮前まち倶楽部コネクション:『みんなのツリー2nd Season 2015』(もみの木の設置&管理。ありがとうございます♪)

 

「出来るだけ自然に恵まれた環境の中で子どもを育てたい」—そんな両親が選んだ土地が、ここ宮前区宮前平だった。ということで、4歳の時からずっと、宮前区宮前平に住み続けている。

子どもの頃はとにかく、日が暮れるまで、泥んこになって遊んだ想い出ばかり。現在よりもずっとずっと自然がいっぱいで、ザリガニ釣りをしたり、カブトムシ獲りに出掛けたり、今でもハクビシンやタヌキが出没する、ここ宮前区が大好きだし、ふるさとだと思っている。

富士見台小学校→宮前平中学校と進み、高校は都内の進学校へ。大学のついた付属高校だったけれど、小さい頃の夢があった。やりたいことがあった。だから、敢えて大学へと進むことはしなかった。小さい頃からの夢でもあった、大好きな音楽の世界へどうしても進みたかったから、敢えて音楽の専門学校へと進むことを決意した。

小さい頃から、歌うことが大好きだった。中でも好きだったのがハードロック、その中でも特にブリティッシュ・ヘヴィーメタルと呼ばれるジューダス・プーリストやアイアン・メイデンなどの音楽に夢中になった。絶対にプロになりたかった。だからこそ、音楽の専門学校に通って、自分のスキルをアップしたり、人脈を作ったり、業界を知ること、メンバーを作ること、経験値をアップしたりするためにも大切だと考えて、自分の信じる道を突き進んでいった。

その甲斐があって、卒業前にデビューが決まった。バンド名は“JACKS’N’JOKER”。インディーズで1枚、メジャーでアルバム3枚を世に送り出した。しかしメジャーデビューから5年後、敢えなくバンドは解散となってしまった。25歳の時だった。

解散後しばらくは、アルバイトをしながらソロ活動をしていた。その期間、約5年。1週間で7曲の楽曲を作っては事務所に出す、そんな日々が続いた。好きなことばかりやっていられない。売れるか、売れないか、それがすべての判断基準、それがいわゆるプロ=ビジネスという厳しい世界だということを改めて認識した。時代の流れもあり、事務所側から求められることへのギャップもあり、次第に、小さい頃からの夢、プロで居続けるということに興味が薄れてきていた。嫌気がさして来たといってもよかった。そして何よりも、小さい頃から大好きだった音楽を、こんな環境で続けていくことがイヤだった。

そんな矢先、叔父と父が経営する会社の管理部門の仕事をやってみないか、そんな声が掛かった。ちょうど、現在の妻との結婚を考えていた時期でもあった。次なるステージ、結婚というステージに向けて、マイクからネクタイへと装いを新たにした。ひとまず、音楽で生活することを諦め、ネクタイを締めて、安定した生活への道を選んだ。これが30歳のとき。

実家はプラスチックの製造業をしていた。祖父が創業した会社で、父達で2代目。そんな決意をして14年間、会社の管理部門として人事、総務をメインとし、国内製造業が生き残るためにやらざるを得なかった香港や上海など海外での法人立ち上げ、現地工場でのモノ作り環境整備なども行って来た。この14年間で、これからの時代は、日本人の1パーツとしてではなく、地球人としての個人力の時代だと確信した。

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そして4年前の2012年9月、『ラーナイ・ロア』をOPENした。どうして得意とする音楽ではなく、ダンススタジオなのかということをよく聞かれるが、単純に子どもがダンスを好きだったということ。子どもたちがダンスを習いたいということで、近所のダンススタジオに通っていたことがそもそもの始まりだった。やっぱり、やるからには習いたい先生のところでしっかり習わせてあげたい、かつての自分がそうだったように、やりたいことを思う存分やらせてあげたい。そんな想いが大きくなって、自ら先生を集めたダンススタジオを作ろうと思った。

音楽もそうだけど、ダンスは協調性を必要とする。そしてその協調性の中だからこそ光る個性をそれぞれ一人一人が発信していかなければいけない。時に、個性というと、一見変わり者みたいなイメージに捉えられることもあるけど、決してそうではなく、いかに社会の中での協調性を大切にしながら自分の個性を磨いていけるかが、これからの時代に、これからの社会の中で生きていくために欠かせないツールの1つだと思う。

そのためのアイテムの1つとして、私が選んだのは音楽だったけど、子どもたちが選んだのはダンス。それを親としても全力で応援していきたいと考えている。そう、かつて私がやりたいことをやりたいように両親に応援してもらったように、ダンスならダンス、自分の好きなことを見つけて、それを突き詰めて頑張って欲しいと願っている。それこそが、現在の社会の中で生き抜いていくために、とても大切なことだと信じている。

『ラーナイ・ロア』とは、ハワイ語で、“ラーナイ=ベランダ“、“ロア=長い”という意味。1階が私たち夫婦が経営する『STUDIO NIXX』&『PRINT STUDIO NIXX』。2階は私の母と弟夫婦が経営する『studio Lanai Loa』。実は現在の『ラーナイ・ロア』がOPENする2年前から、母が今と2階の『studio Lanai Loa』で、母がフラダンスの教室『マープアナ・フラ・スタジオ』を始めていた。

ラーナイロア案内図 のコピー

母がフラダンスに興味をもって始めたのは、今から40年以上前のこと。まだ当時の日本においては、今のようにフラダンスが認知されていない、そんな時代。フラダンスのような腰を振るようなダンスなど、下品だといわれていた、そんな時代のこと。好奇心旺盛な母は最初、趣味でフラダンスを習い、その後はハワイの文化やフラダンスの魅力ににどっぷりとはまっていった。そんな時代背景の中でフラダンスを学び、カルチャースクールでフラダンスを教えた第一人者だ。その後、フラダンスの指使いや表現方法が手話と同じだと感じるようになり、音楽に合わせて楽しみながら手話に触れることのできる手話ダンスを考案した。それが1979年のこと。その2年後、「日本手話ダンスクラブ(旧:日本手話ダンス友の会)」、「手話ダンスアカデミー」を主宰。手話ダンスは聴こえない方への理解を深めつつ、手話表現、豊かな表情、心の優しさを大切に、そして何よりも踊ることの楽しさを伝えたいという想いで取り組んできたダンスの1つ。生き甲斐、やり甲斐、自分らしさを大切に生きる、人生の素晴らしさを最初に教えてくれたのは、そんな母なのかもしれない。

ダンススタジオの横には、『PRINT STDUIO NIXX』が併設されている。昨年12月まではハワイアンのお料理や飲み物などを提供していたカフェだったスペースをリニューアルして、プリント工房として生まれ変わった。自己表現のアイテムとして、ダンスと同じように、ファッションが大好きだったから。それぞれの個性をアピール出来るよう、ダンスの衣装も自分たちでデザインしたり、作ったりしている。

プリント のコピー

子どもが3人いる。息子2人(17歳・13歳)と娘1人(9歳)は、私がミュージシャンだったことを知っていながらも、それを追いかけるでもなく、3人とも音楽の世界ではなく、ダンスの世界にいってしまった。ちょっと寂しくも感じるけど、それはそれでしっかりと応援してあげたいと思っている。

そんな子どもたちのために、私が好きな宮前区を、このまま残してあげたいと考えている。住みやすいまちだと思うし、環境も整っていると思うし、治安もいい。電車にしても車にしても、都心にも地方にも出やすいし、交通の便もいい。夜も静かだし。

私が育ててもらったまち、宮前区を次の世代に残すことこそ、自分たちの世代としてするべきこと、そう恩返しだと考えている。もともとここ宮前区に昔から住んでいる方もいらっしゃるけれども、たとえば私の両親が宮前区に移り住んだ第一世代と考えると、私たちは第2世代。第3世代である子どもたちへと、引き継ぎしていくべき役割、そして責任があると思う。そこで私たちが第2世代として出来ることは何かを日々模索している。

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(HAJIME先生/アクロバット&ブレイクダンスクラス担当)

自分が子育てをしていくためのお城のようなものを作りたかった、それが『ラーナイ・ロア』に込めた私の想いである。

高度成長期、バブルという時代を経てきて、日本は大きく変わってきたと思う。日本の安定は大きく損なわれ、そこにはもう過去のやり方は通用しないのだということを肌身を通して感じる。

プロのミュージシャンからビジネスマンに転じたからこそ見えてきたものがある。そしてさらに、ネクタイを外して、こうした仕事に就くことで見えてきたものがある。いろんな立場に立って物事を見る角度が変わることにより、今はいろんな立場から俯瞰して物事を考えられるようになったと思う。どんな仕事も、どんな時間も決してムダではなかったと思っている。だからこそ今こうして、この立場でトライ出来ていることは間違っていないと思うし、これからもずっとずっと将来へと、子どもたちの未来へと繋がっていくことだと信じている。

雇用問題しかり、年金問題しかり。そこには、自分が子どもだった頃のような安定した社会、安心の日本は見つけられない。国も企業も守ってくれない、すべてにおいて自己責任の時代。学歴社会で育ってきた私たち世代のやり方はもう通用しないし、これまでの物差しのメモリは通用しない。新しい子育ての物差しが必要だということを痛感している。

だからこそ自分たちの子どもたちには、自分の信じる道を、やり方を模索しながら突き進んで行くしかないのだと思う。自分が本当に興味のもったところのトップを目指していくこと、やりがいと生き甲斐を持って生きていけること、自分が思っていること信じていることを貫いて生きていって欲しいと思う。

やる気と行動する力、自分を信じる気持ちで、夢を可能性あふれる未来へと築き上げていって欲しいと思う。自分の子どもが本気で没頭出来ることを見つけられるように、手を差し伸べたり、方向性を示してあげられたらいいなと考えている。

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(SAL先生/HIPHOPクラス担当)

たとえば『ラーナイ・ロア』が人生の1つの幹として、何かの役割を果たせないか、何かを作れないか、残せないか。たとえば昼は何かしらの専門学校だったり、夜は自分探しの出来るような居場所だったり、今はまだ漠然としているが、『ラーナイ・ロア』がそんな場所になっていけたらいいなと考えている。お年寄りも子どもも、気軽に集えるような場の提供もしていきたい。今までのやり方ではなく、新しい子育ての物差しでもって、チャレンジしていけるような場所に、ここがなっていけるようにしたいと思う。地元宮前区で何かやりたい、そんな目標をもっている。それにはまず資金作り、人脈などなど、まだまだ課題も多いのが現実。子どもたちのためにも、自分を育ててくれたまち宮前区に、何かを残していきたいと思う。人として生まれてきた以上、やっぱり人が基本。Give&takeの精神で、人とつながること、まちとつながることを大切にしていきたいと考えている。

この想いは単に子どもたちだけでなく、スタッフへの想いにも共通してある。今、ここには20代〜30代半ばのスタッフでありダンスの先生が10名ほど。みんなそれぞれに、やりがいを持って、生き甲斐を持って、自分らしさを大切にしたいと考えて、ダンスに取り組んでいる。たとえば女性の先生なら、結婚や出産などを含めて、自分のライフプランの中で、自分のためのダンス、子どもたちに教えるためのダンスをどうすれば継続していけるのか、自分の人生におけるダンスとの取り組みの様子を子どもたちに見せていくこともまた、子どもたちにとっての将来の指標の1つとなると思っている。

私、そして先生、子どもたち。それぞれが、それぞれの役割を果たしていくこと、生き様を見せていくこと、そんなことが自分らしい人生を歩むこと、充実した人生を歩むことへと繋がっていくのだと思う。ダンスは健康のためにもいいし、ダンスを通して、それぞれの人生を語れるような、そんな環境づくりも目指している。

スタッフ のコピー

今年8月6日(土)には、『ラーナイ・ロア』のアニバーサリー・フェスティバルを開催予定。毎年、年に1回、この時期に開催され、今年で4回目となる。このフェスティバルには、スタジオNIXX、フラスタジオ、日本手話ダンスクラブなどが一斉に集まり、ダンスを披露して、暑い暑い真夏の一日、熱く熱くステージを盛り上げる。普段は忙しいダンスの先生も、この日ばかりは子どもたちと一緒の楽しい時間を楽しむ、そんな記念すべき一日となる。どなたも自由にご観覧、ご参加いただけますので、お時間があればぜひ♪

西澤2 のコピー

ダンススタジオ、そしてプリントスタジオに付けられた『NIXX』。これは西澤さんがロックミュージシャンとして活躍していた時代、『NIXX』という名前から付けられたものだそうだ。また『NIX』には「皆無」とか、「0(ゼロ)」といった意味も。ゼロからスタートして、もう1つの『X』=無限の可能性を信じて頑張っていこうという願いも込められているという。

西澤さんの想い、そして決意がここ、『ラーナイ・ロア』の長いベランダが基地となり、愛する子どもたちへ、そして愛するまちのみなさんへと届きますように♪

 

STUDIO NIXX / PRINT STUDIO NIXX

〒216-0005 宮前区宮崎6-9-5  東急宮前平ショッピングパークB2棟1F

TEL/FAX 044-577-4421

http://www.ysbox.jp/nixx/

https://www.facebook.com/StudioNixx/

https://www.facebook.com/nixx.print/

(2016年6月取材/2016.6.29公開)

(取材&文:笠原千恵子  カメラマン:青柳和美 写真加工:浅野真紀)